有難い
摂心を控えて、禅モードを高めるつもりで澤木老師の本を手に取ってパラリとめくったところ、目に飛び込んだ文が以下。
わしの一生が貧乏に生まれて有難い、親が亡くなったのも有難い、家を飛び出し永平寺に行って見たり聞いたりしたこともみな有難い。そうして今日、わしが道のために働くべく、これは日に向かって花が咲くように、わしは有難い因縁を受けた。
ハートを射抜かれたようにドキンとした。
この数年、最後の家族であるシューがいなくなったら本当に独りだという意識を常にもっていた。それが現実となって、ときおりその侘しさがすきま風のようにすーっと通り抜けるのを感じていたが、これを読んだら、ほんとうに有難い気がしてきたから不思議だ。
家族もなく、家ももたない澤木老師は、多くのお弟子さんに囲まれ、どこに泊まってもそこが我が家のように思っていたという。私もCHAZEN生という家族に恵まれた。まさにこれほど有難い因縁があろうか。
そして、澤木老師と並べて語るには遠く及ばずながら、私もまた道のために働くべく因縁を授かった身であった。
もしかしたら、私の最大の幸運は道のために働いていることかもしれない。誰に迎合することなく、自分の信じる道について説いていられる有難さよ。
しかしながら、澤木老師が言わんとしているのは、道のために働くことの尊さではない。そんなくだらないことを澤木老師が言うわけがない。
貧乏に生まれたら生まれたで有難い。金持ちに生まれたら生まれたで有難い。
親がいたらいたで有難いし、親がいなかったらそれもまた有難い。
道のために働くのも有難いし、他のことのために働くのも有難い。
要するに、これが良くてあれが悪いとか、これが偉くてあれはダメということではないのだと思う。どんな境遇もすべて有難いのだ。
言い換えれば、今自分に与えられている境遇そのものを有難いと思えることが幸と不幸の境目ではないかと思う。お釈迦様が気づいたのはざっくり言えばそういうことだ。
澤木老師に励まされて、庭のてこ入れにパワーを注ぐ。人為的に植えたと思われるものはほんの一部で、ほとんどが自生の植物と思われる。どの木も枝が混みすぎて日当たりも風通しも悪くなっている上に、蔓科の植物が絡みついて、もつれにもつれたドレッドヘア状態。いったいどのくらい放っておいたらこんなになるのだというほどひどい惨状に、バッサバッサと鋏を入れていく。
「あまりに汚れていると瞑想は難しい。だから身体の浄化(お掃除)から始めるのだよ」と先日のヨーガ・スートラクラスでも言ったように、この庭もまずはざっくり切って伐って斬って、そこから始めよう。
ひたすら斬ったゴミを燃やしていたら、あっという間に3時間がすぎていた。作務というこの瞑想的な時間もまた有難い。さっき火の始末を確認しにいったら、星空がきれい。どこかにシューがいるのかな。どの星もシュー座に見えるけどね

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