慈しみ
山門を回り込んだら、カラスがいた。
お寺の隣にある小学校の駐車場で、困ったような顔で佇んでいるカラス。
隣に黒い物体がある。
車に気づいたカラスが、ほんの少し羽ばたいて遠ざかった。
速度をゆるめて近づくと、黒い物体はカラスだった。
行儀よく横向きに寝たような格好で、おだやかな顔をしていた。
お寺に入って坐ると、今さっき見た光景が浮かんできた。
あのカラスはなにをしていたのだろう。
カラスは仲間が死んでいるところには近づかないのではなかったか。死んだカラスのダミーをカラス避けとして吊るしてる畑があるくらいだ。
倒れたカラスの様子を窺っているように見えた。おろおろしているようにも見えた。
つがいの片割れなのか。
倒れていたカラスは、体勢からすると、外敵に襲われたとかではなく、なにか発作とか突然死のような形で息絶えたと思われる。
急に倒れた伴侶を見て、どうしちゃったの?というように、傍に寄り添っていたのだろうか......。
カラスも人と同じような感情をもっているのかもしれない。私たちと同じような悲しみがあるのかもしれない。
ちょうど前日の原始仏典のクラスで、慈悲心についての話が出た。
たとえ小さな虫1匹であっても、私たちと同じいのち。虫の気持ちになってみると、少し世界が変わる。倒れたカラスのそばに寄り添うカラスを見たら、見方も変わる。
家のまわりに来る小鳥たちのようには愛らしいとはいえないけれど、最近はよくカラスにも話しかけるようになった。鳥類が大の苦手だった私がここまできたかと少しうれしくなる。時間をかけてゆっくりと慈悲の心が育まれたことを実感する。
馴染みのない土地での暮らしでは、今まで見たこともなかったような動植物と共存しており、できるかぎりそれらの生き物の生を尊重するようにはしているが、きれいごとでは済まされず、たくさんの殺生もしたし、全体の調和も考えて間引きや草引き、伐採も行っている。都会では蚊くらいしか殺生の対象はなかったことを考えると慈悲心はなくなっているようにも思えるけれど、自然の中に暮らしてその現実に接しているほうが動植物とより近しい関係になるようにも思える。
シューがお空に行ってから、いろいろな動物がシューに思えるのだけれど、実際、どの動物もシューであり、私であるのかもしれない。そういう世界観を持てるようになるのが仏道だと感じている。
先日読んでいたスッタニパータに、こういう詩句があった。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
眼に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみのこころを起すべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。
「ブッダのことば ー スッタニパータ」中村元訳 岩波文庫より
朝課のあと、夏椿の木の落ちた花や葉をを片付ける作務を終えて帰るときには、カラスのいたところには車が停まっていた。学校関係者が片付けたのか、それともほんとうは気絶していただけでしばらくしたらムクっと起き上がって飛んでいったか。
「世界を変える」のではなく、自分の見方一つで「世界は変わる」。
自然の中で、お釈迦さまの教えの偉大さを感じる日々である。
