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飛び込め

更新日:2月5日

先日の空庵ステイ、テーマの希望がはじめ「摂心ぽいの」だった。それだと同伴してくれる人はいないだろうと思いきや、意外にも乗った人がいたので感心していた。


ところが、だ。


お迎えに行った足でランチするので、事前に、食べたいものがあるか、行きたい場所があるか聞いたら、焼き芋したい、スープカレーつくりたい、蕎麦食べたい、スイーツも......などなど、やりたいことリストが届いた。


は?


摂心風を希望されていたはずでは.....?



そもそも一泊で摂心風は無理だし、まったく別路線のそれらの希望にも応えられないであろうことを伝え、寒波の影響もあるだろうと予定を決めないプランでスタートした。それがなぜか、終わってみたらリストをほとんど消化していた。しかも、美味しく楽しく首尾よく、高レベルでの達成だ。さらに、帰りの高速バスの予約もせず、チケットどうやって買うんだろうねなどと直前まで呑気にしている二人なのに、すべてがうまく運び、定刻どおり新宿に着いたそうだ。


なんて上出来な。



で、摂心風味はいかに?


初日に夜坐、翌朝に曉天坐禅をしたけれど、眠そうだったり足が痛そうだったり。それで摂心風を志願するとは、なかなかキモが据わってると、ちょっと笑えたけれど、修行風味を敬遠されるよりよっぽどいい。できるかできないかはどっちでもいいことだ。要はやる気の問題。よくわからないけどチャレンジしたいという気持ちを大事にしてほしいし、こちらも大歓迎。


そもそも「摂心風」と「摂心」の間には雲泥の差がある。手打ち風うどんは手打ちではないのと同じ。摂心ではないけれど、なんとなくそんな雰囲気という意味では十分に摂心風だった。夕食が終わってから夜坐に入る前の時間、薪ストーブを眺めながら、おしゃべりもせず、ただ火の観察を楽しんでいた二人を見て、そんなふうに思った。私が促したのではなく、天然自然にそうなっていた。


炎の瞑想タイム。

この時間こそが「ザ・空庵ステイ」だと私は思っている。何も生産的なことをせず、闇と静寂を味わい、侘び飯を楽しみ、ゆったりした時を過ごしてもらうための「空」庵だから。


迷走しているようで瞑想している。いちばんの醍醐味をちゃんと堪能している。外しているようで実はどストライク。それが妙にすがすがしく感じられた。二人を見送ったあとに見えた富士山のようにあっぱれだ。


カラダが硬いからヨガなんて無理......と思うことが愚であるように、できないからわからないからと尻込みする必要はない。朝起きられなくても、わかってなくても、それがどうした。まずは飛び込め。すべてはそこから始まる。


なんだか私自身が励まされた気もする。

ちょうど薪問題が喫緊の課題となっていたところで、いよいよ原木の調達やチェーンソーの購入を実行に移さねばならなくなっていた。未知の分野へ乗り出すには勇気がいる。さあ、ぼんやりしていないで一歩を踏み出そう。


悩みに悩んでチェーンソーを選び、購入し、悪戦苦戦して組み立てたものの、歯の向きを逆に取り付けていてぜんぜん切れなかったりして、初心者あるあるの失敗をしながら、ついに使えるようになった。


そして、チェーンソー用のオイルを買いに行くついでに地元の森林組合に寄って、薪にする原木を予約してきた。電話で聞くよりもと、まさに文字どおり飛び込んでみたのだ。ウェブサイトを見てもそれらしい情報が掲載されていないし、門前払いも覚悟の上だったけれど、実直そうなお兄さんが親切に応対してくれた。これで懸案事項が解決となり、ひとつ肩の荷を下ろした気分だ。


そうやってあれこれ悩みながら、ドキドキしながら、こんな生活を選んだ自分をうらめしく思いながら、ひとつひとつクリアしていくことを楽しんでいるのかもしれない。楽しんでいる自覚はないけれど。


ひとつひとつクリアしていくというのは、まさにアシュタンガの練習と同じ。難所あり、避けたいポーズありの長い道のり。なんでこんなことやっているんだろうと思いながら、それらの山を乗り越えてきた。時間はかかるけれど、時間がかかるからこそ得られるものは尊い。


人生何がどう転ぶかわからない。失敗も、予期せぬ出来事も、すべて丸ごと受け入れていければ、世の中恐れることなど何もない。タスクを完璧にこなすことよりも、多くの失敗をしなやかにすりぬけてにっこり笑って生きていこう。



こちらは吹雪いているのに富士はクッキリ

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