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遊び暮らす

現在薪ストーブで燃やしているのは薪小屋に保管してあった廃材で、釘がついているようなのもあれば未使用の材もある。別荘使いだった家なので、さほど薪を消費せず、長い期間保管されていたのだと思う。山と積まれたそれらを崩し、虫や汚れを掃除しながら積み直して、薪小屋を片づけるのが1月までの仕事だった。


薪小屋が片づくと同時に薪が足りなくなることがわかったので、今度は3カ所に分けて保管されていた長いままの角材の山に着手した。角材の山にはシートがかけられていたが、これも長年放置されていたため雨水が入り込み、一部は凍りついていた。当然ながらその部分は腐っている。凍ったところを少しずつ剥がし、陽に当てて乾かしてから、使えそうなところは薪にするというのが今月の主な作業である。


アリがたくさん出てきたのはその作業中のこと。軽井沢でも古い薪にいて「ワルそう」だと思ったそのアリはしかし、冬ごもり中のために動きがほとんどないか緩慢で、ワルそうには見えなかった。働いていないアリの集団はまるで最近よく聞く昆虫食の佃煮のようだった。


そんなアリたちも、角材を動かすと逃げ始めた。必死で逃げているのだと思うけれど、ぐっすりお休み中を急襲されたため、動きがもっさりしていてぜんぜんアリらしくない。すぐに大魔神に捕まってしまうのだった。そんなアリたちの生命欲については、前回のヨーガ・スートラクラスで話したばかり。


その後、薪に使えそうなものをカットしていたところ、またしてもアリたちにでくわした。木の中に潜んでいて、チェーンソーで切ったらドサッと落ちてきたのだ。それで作業を中断し、木を解体してアリの家を見学してみた。おもしろいことに、アリは主に2つの部屋に集っていて、ほかにも穴はあるけれどそこには誰もいなかった。そうか、集団生活が基本なのか。みんなかたまって越冬するんだな。核家族も独居老人もいないアリの一族なのか。


さんざんそんな生態を観察したあとで、腐った薪とともに焼却した。残酷だけど、殺虫剤よりはいい。軽井沢ではアリたちを遠くに連れて行って捨てたのだけれど、ここは適当な場所がなくて断念した。合掌。


このドラム缶での焼却作業がおもしろくて、火の性質、炭になっていく過程など観察しながら、きれいに燃焼するようかき混ぜたりしていたら時のたつのを忘れていた。家に入って時計を見たら17時。ふだんは11時ごろから14時ごろまで外で作業しているのでびっくりだ。


作業中は多かれ少なかれそこに没頭してはいるが、段取りを考えたり、生活のためという意図的なものが働く。もちろん焼却自体は腐った薪を片づけるための「仕事」なのだが、始めたらそういう目的が消え去って、燃やすことそのものに夢中になり、ただひたすら火の番をしていた。


その瞬間、私は火と一体になり、火そのものになっていた。あるいは、何ものでもない「ただのいのち」になっていた。瞑想状態とは違うけれど、サットヴァな状態ではあったと思う。


妙になつかしい気がしたのは、日が暮れるまで遊び呆ける子ども時代の私に重なるからなのだった。結局私は、泥んこ遊びだの、虫遊びだの、火遊び(オトナじゃないほうの)とか、秘密基地を作るとか、そんなことがしたくて東京を離れたのかもしれない。


昇進・昇給・出世の世界から遠く離れ、偉くも立派にもならず、人の役にも立たず、ただ毎日を遊んで暮らしている。これはヨガでも禅でもなく、タオなのかもしれないと、老子を読んでそう思うようになった。


途方もない片づけ作業も、こうして遊びながら少しずつ進捗していく。毎日少しずつ地味な作業を繰り返す。どれだけそれを楽しめるか。




早朝うっすら降った雪を払って戻ったら、服に粉雪が

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