神の領域へ
2回目以降の修験道的滝行には、もしもの滑落に備えて、ホイッスルや保温シート、ほんの少しの非常食を携帯している。スタート地点にある神社にていねいにお参りして、消災吉祥陀羅尼を3回唱えてから出発というのもルーティン化されて、ウィークリーのプラクティスとして続けている。
先週は朝の最低気温が4℃で、お寺で坐禅中に自転車で冷えた手がしびれていただけに、山登りでは身体が楽だった。3回目の本日も朝は肌寒かったのだが、湿度が高いせいか汗をたくさんかいた。そして、息が切れた。ハイペースで歩いたせいもあると思うが、朝ごはんを食べてから行ったので身体が鈍重な気もした。どのような修行であれ、空腹状態で行うのがベストだと身をもって知る。
尾白川渓谷の水は、前日に雨が降ろうがあくまで清らかだ。濁っているのを見たことがない。このあたりは天然水のエリアだけに、どの川も、どの水路や側溝の水でさえも、みな澄んでいて澱んでいるところがない。

「ただ歩く」ことは「ただ坐る」よりもずっと簡単だ。何も考えず、ひたすら足を運び、歩くことだけに意識を集中させる。原始仏典のなかに頻繁に出てくるフレーズ「気をつけている」というのは、まさにこのこと。マインドフルでなければ滑落する可能性が高くなるというこの状況下では、自動的に「気をつけている」からだ。
最初は気づかなかったけれど、滝の近くにアプローチできるところがいくつもあった。あの目が釘付けになった巨岩も下からよく見ることができた。

先週は朝の早い時間だったので、旭滝で小さな虹が見られた。

慣れてくると勝手がわかっているだけに、怖さがなくスイスイ進める。
ただこの安心というのがクセモノで、安心は慢心につながる。自分は「わかっている」という思いが無意識のうちに慢心を生む。かといって、「わからない」「できない」という思いも不安が増長して平時の心境を保てなくなる。
毎回初めて歩くような心持ちで、事物や現象を受け止めるよう心がけよう。特に事故や失敗は油断の中に潜んでいるので、最後まで気を抜かず「気をつけておれ」と言い聞かせる。
初回は足がすくんだ神蛇滝の垂直の崖も、次には崖の際まで行って写真が撮れた。

この滝をゴールとして下山すると2時間くらいになるので、それを標準のコースに設定したが、先週はさらに気温や体調などコンディションが良好だったため、もうひとつ上の不動滝まで行ってみた。
30分くらい登って下ると、突如表れた吊り橋。

ここまで来る人が少ないのか、木々が生い茂ってやや歩きにくい。案内板もいつの時代のものなのか古びていて字が読めない。土日や夏場はそれでも歩く人が多くなるのかな。平日はまず歩いている人がいないので、向こうから誰か歩いてくるとちょっとびっくりする。
吊り橋の向こうに不動滝。これまでの滝とは地形も風情もまた違う。

尾白川渓谷は全部で20ほどの滝があるそうで、とても変化に富んだ滝と景観が心の汚れを洗い流してくれる。すべて自然が作り出した美である。人間などとても敵わない大いなる神の力を思う。山が神聖な場所であるということは、この美にも表れている。そのパワーをお借りできるのであるから、プラクティスの半分は「神がかり」といえる。
ここはニンゲンを洗う洗車機のような場所。機械が動いて洗ってくれるのではなく、自分が動いて洗う仕様ではあるが、洗車機を出たら車がピカピカになっているように、山を下りて最後にもう一度神社にご挨拶するときには、心の曇りがすっかりとれている。
なんの技術もいらないプラクティス。ただ感じる力だけがあればオートマティックに神様が汚れを落としてくださるのだと思う。大いなる自然こそが人間の思い上がりを悟らせてくれる神の示現のような気がした。