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生きとし生けるものたち

花散らしの雨が降っている。


ゲストが来る明日までなんとかもつかなと思っていたが、どうやら朝にはすっかりみすぼらしいことになっていそうだ。なにしろ今年は3月が暖かかった。ストーブの前から動けなかった冬が終わり、坐禅もデスクワークも好きな場所でできるようになったことがうれしい。


空庵のまわりにはいろいろな野鳥がいて、姿がよく見えるので少しずつ鳥の種類を認識しつつある。春になってからは求愛行動が盛んになり、囀りが活発だ。早朝、夜が明ける前はホーッホホーというふくろうの声がよく聞こえる。坐禅をしているとキジがグェッグェッとすぐ近くで鳴くので、どこにいるのか気になりおちおち坐っていられない。明るくなってくると、ウグイスのホーホケキョやその他の小鳥たちの美しいさえずりが聞こえ、坐禅の楽園化がはじまる。そもそもが「坐禅は安楽の法門」なのだから、方向としては間違ってないのかもしれない。


シューがいなくなってから、生きとし生けるものすべて愛そうと思っていたら、不思議なことにどの生き物もシューの生まれ変わりのような気がして仕方ない。ベッドで灯りを消してYouTubeを見ていると、ノソッノソッとカメムシ(細長いやつ)が画面を歩いてきたので、思わず笑ってしまった。自分の存在を知らしめるように割り込んでくるシューそっくりではないか。


キッチンの窓の向こうでジョウビタキがさかんに囀りを聞かせるのも、すぐ近くででキジが鳴くのも、何かを訴えかけて吠えるシューに思えて、「はいはい、何のご用でしょうか?」と声をかけたくなる。鳥が苦手な私としては、かなりの変化だ。それでもどうしてもダメなものもあるけれど、その気になって心を開けば「嫌い」という思い込みは案外なくなるものなのだと思う。


愛したいけどお引き取り願ったり、死んでもらったりする生物もある。先月はまさかと思っていたら、粘着式のねずみとりにちっちゃなハツカネズミの一家がかかっていて、かわいそうなことをした。よくは見られなかったけど、暗がりにライトを当てたらひとつの粘着シートにたぶんお父さんとお母さん、2匹の子ネズミといった物体がご臨終なさっていた。


住みつかれたらもっとたいへんなことになるので仕方ないけれど、一家惨殺の犯人となってしまったからには、毎朝のお経でせめてもの供養をしている。



冬の間放置してあった自転車に乗る動機づけとして、近くのお花見スポットまで足繁く出かけている。少しずつ馴らしていって、もう少し気温が上がったら、お寺にも自転車で行こうと思っているからだ。何しろ空庵は山の上なので、行きはよいよい帰りはきつい。脚力・心肺機能を高めておかないと、行ったはいいが、帰りは泣きながら......ということになる。


どこの桜もみごとで、冬の寒さが厳しかっただけに、突然開けた桃源郷のように感じられる。有名なところは花見客もおおぜい詰めかけていて、日本三代桜と言われるところはまあわかるけれど、空庵近くの桜並木など、ふだんはまずめったに車とすれ違うことなどないような場所なのに、早朝から人と車が詰めかけて通り抜けるのがままならないほどになっている。


それなのに、町営のキャンプやBBQができる公園のようなところに行ってみたら、誰もいない。立ち入り禁止なのかと思って、管理事務所にひとりいたスタッフに入っていいか聞いたらどうぞと。桜はみごとだし、広い公園なのに、人っ子ひとりいない。南アルプスと八ヶ岳の両方が見える最高のスポットなのに、私ひとりで独占、貸切だ。ありえない。これが新宿御苑だったら......と想像する。人が少ないっていい。ビバ山梨。



どの桜もみごとだけれど、私が好きなのはそういうみごとなのじゃなくて、枯れ野にポッと咲いている山の桜。


自転車で、誰も通らない道(林業関係の人しか通らないような)を走ってみた。ここは当然のように誰もいない。誰も見に来たりはしないけれど、誰も手入れなどしていないけれど、桜はただひっそりと、自然のままに美しく咲いている。


天然自然の桜


こんなところからも生えてきている。



たくましい

誰に見られるでもなく、誰に見せるでもなく、ただそのまま、生命の実物大を生きる桜のように生きたいと思う。




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