瑠璃練の法則
年末のオンラインレッドクラスは、いつもの瑠璃光殿ではなくお寺の本堂にて。
バーチャルなカウントができるか自信がなかったので、開始前にああでもないこうでもないと、カメラを据えてもらったりしていたら、モニター越しにいつものCHAZENの雰囲気が伝わってきた。むしろ、以前よりも和やかで楽しそうだ。
レッドクラスが始まったら、さらにそれが強力に感じられた。
瑠璃練、いいじゃないの。
なんだか、とっても、よろしくてよ。
こんなCHAZENの行末は、想像だにしてなかったけれど、思わぬ金鉱を掘り当てたような気持ちになる。
サボりがちなのに練習の大事さだけはよく承知している人たちが、こうして集まることで、道を外れることなく歩いていける。自己の目的に執着もしていないから、ほどよい脱力加減が「なんだかとってもよろしい」空気感を出しているみたいだ。
何より私がいないことで、各人に連帯感と責任感、そして「当事者」意識が生まれているように感じた。
山小屋で薪ストーブに着火するとき、いつも思うことがある。ライターで割り箸に火をつけても、1本では結構な確率で消えてしまうが、すかさずもう1本の割り箸を近づけると火が大きくなり、さらにもう1本足すと強力な炎になって焚き付けの木に燃え移ってゆく。
プラクティスと同じだなと。
ひとりではすぐに消えてしまう火も、誰かと一緒だと持続しやすく、仲間が増えるほどに大きな炎となる。
これを瑠璃練の法則という。
それこそがサンガの意義でもある。
修行そのものはひとりで行うものであり、誰のためでもなく、自分のためですらない。チームプレイの必要などない世界でありながら、仏教はサンガをよりどころとしている。集団を形成することで修行を継続し、道に迷わないようにするためなのだろう。
そして、仏教もヨガも、人より秀でるために行うものではないから、その人なりのプラクティスを淡々と続ければよい。「毎日やるのがアシュタンガ」だけど、「毎日こなくてもCHAZEN」だ。
私が遠くにいてもCHAZENはちゃんと成立している。モニターなのに、臨場感がある。それがサプライズの贈り物のように私を感激させた。
足りないのはシューだけだ。
シューのいない毎日にはすっかり慣れたけれど、そんなことを思っては寂しかったり、でも毎日の暮らしは充実して楽しかったり。泣き笑いの2022年大晦日。この3カ月はまさに怒涛の渦に巻き込まれたような日々だったけれど、来年は少し落ち着いて晴耕雨読の日々を紡いでいきたい。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
