武術と身体の探究
ひと月限定でNHKオンデマンドを視聴している。目指すは「日曜美術館」のある回だったのだが、「100分de名著」のラインナップを眺めていたら、原始仏典のクラスで読んでいる「真理のことば」を発見。しかも、昨年著書を読んで以来、おっしゃることが理にかなっていると一目置いていた佐々木閑先生が講師という偶然も重なり、原始仏典のクラスを応援されているような気にさえなった。
ほかにも、さすがはNHKだけに見応えのある番組が多く、あれこれ見まくっているが、大穴だったのが「明鏡止水〜武のKAMIWAZA」。すっかりシャバから離れている私は、このような番組が存在することすら知らずにいたが、明鏡止水の言葉に誘われてみれば、驚き、喜び、ところどころ巻き戻してガン見するほどハマった。こんなマニアックな番組をよく放送できるものだと感心してしまう。
とはいえ、そこは司会が岡田准一で、ゲストにアイドル系女子も出ているのでそれなりに視聴率は稼げるのだろうけど、自身を武術翻訳家と称する岡田准一あってこそ成り立つもので、マニアックにも華が添えられているのは確か。そういえば以前、時代物の映画を見ていたら「殺陣」として岡田准一の名前がクレジットされていたのを見て、ただのジャニーズでないことは認識していたが、精神論を含めたその武術的なものの見方、身体操作法の知識と実践はかなり深いと見た。岡田准一おもしろい。一緒に飲みに行って、武術と禅の話を語り合ってみたい。
私は武道のたしなみもなく、格闘技などむしろ見たくないほうなのだが、古武術には大いに関心がある。たまたま禅からのご縁でワークショップなどに参加する機会もあり、アシュタンガの練習に大いなるヒントをもらってきた。ただ、その話題を出しても反応があったためしがなく、この話題に食いついてくれる人の顔が思い浮かばない。言えば言うほど虚しくなるパターンかと思うと躊躇もあるが、先日のオンラインCHAZEN会で出てきた「身体の探究」について考えるきっかけにはなるかもしれない。
それにしても、実にさまざまな武術、武道の流派があるものだ。ヨガも同じだけれど、完璧なものなどないので、どんどんアレンジしたくなるのだろう。どの流派もそれぞれに、いかに無駄なく、身体を効果的に使って相手を制するかを探究していて興味深い。テクニックの探究という話であれば、どんなスポーツにもゲームにもそれはあるが、武術は勝負のようでありながら、勝負以上の世界だというところに深淵なものを感じる。
勝ってチャンピオンになるとか、オリンピックに出るという競技とは違い、武術の世界では自己の鍛錬という意味が強い。斬り返すのではなく相手を無力にしたり、効果的に防御するための技があったり、いかに戦いを避けるかに力を注いでいる流派など、スポーツのようなゲームではなく、生きるか死ぬかの真剣勝負のための術(すべ)なのだということを再確認する。いのちを賭して向き合いながら、決していのちを無駄にしない。そういう面が「生死」を扱う禅の思想に結びつく。
実際に武術と禅は縁が深い。少林拳を取り上げた回で久しぶりに思い出したが、少林武術の里、中国の少林寺は禅の始祖である達磨和尚ゆかりのお寺なのだ。真偽のほどは定かではないが、達磨大師が坐禅のかたわらエクササイズをしたのが少林武術のはじまりとか。10年近く前にそのことを知り、その武術の一部がヨガのアーサナそのものだったことに驚いた。当時ブログにも書いたが、そのときリンクした動画がまだ見られる。
(9' 15"あたりから)
アシュタンガのアーサナは武術とは違うが、身体の使い方の面では武術の操体法が参考になる。少林拳の回で出てきた「体をつなげる」というエッセンスは、そのままアーサナ練習に応用できる。ワークショップでよく言ってきたことだけれど、手を伸ばすという動作を腕だけで行うのではなく、身体の中心コアから動きやパワーを伝えていくというのがソレに近い。チャトランガのパワーは腕の力ではなく腹から、ということにも関連する。
端的に言えば、武術は「肚」がすべて。そして、肉体的に肚ができるほどに、精神も鍛えられる。言い換えれば、肚の弱さが精神力の弱さでもある。ナヴァーサナが大事なのはそういうことでもある。もっと言うなら、坐禅も肚で坐るもの。すべてがリンクしている。そんなふうに考えて、日々の練習を重ねると、アシュタンガの練習はどこまでもおもしろくなる。
これは実際に自分でも体験したのだけれど、武術の「型」を行うとなぜか崩れない身体に変化する。型を行う前より確実にパワーアップしている。空手の回でそれを実演しているのをみて、改めて納得したが、あれは不思議だ。やはり「気」の力なのか。
「呼吸=気」の使い方であったり、いかに力を抜くかという要点は、武術やヨガ以前に、日常生活での身のこなし方、あるいは身体に負担をかけない動き方にも通じる大事な身体操作である。サマスティティひとつがすべてのポーズに通じるように、立ち方ひとつがすべての動作に通じる。無駄のない武術の動きが美しいのと同様、アシュタンガも力みがなく淡々と行うほどに美しく見える。しかし、そこに至るまでには多くの年数と実践、あくなき探究が必要とされる。
先日のアシュタンガについて語るオンラインCHAZEN会で思ったのは、練習の頻度(熱意)✖️経験年数によって理解の度合いは深まるということ。どちらかだけでは不十分で、それらがある一定のラインまで達したときに、それまで表面的であった理解が急速に深まっていくように思った。要はそこまで続けられるかどうか。
そんな今朝、休日モードで朝から「プレミアムシアター 五嶋みどり バッハを奏でる」を視聴していたが、その中で印象的だった言葉が「バッハはとても深くて複雑だから、ただ学びを続けるだけだ。理解できるまで待つ必要はない。完全に理解できたと感じることなどないのだから」というもの。
すべてのプラクティスは理解しようとする試みなのだと思う。
件のCHAZEN会では、アシュタンガの練習で身体の探究をしていると<我>の部分が大きくなるという話が出たが、確かにそういう面もあると思いつつ、身体の探究をすることはyogaを理解しようとする試みなのだとも思った。表のきれいな面だけをすくっていても、深いところに潜んでいるものに出会うことはない。とことんやり尽くした先に、このプラクティスがどういうものかを理解する手がかりが得られる。
<我>の正体を見極めなければ、<非我>は理解できない。
Just do it!
