新しい寺縁を得て
2月はゲストがなく、まるまるひと月を単独で過ごした。いきおい考えごとが多く、ずっと絶好調だった体調にも不具合が出てきて、シューのいない寂しさがこたえた。
そんなある日、近くに坐禅会をやっているお寺はないか探してみたらあった。住職は永平寺で修行をした若い方で、開かれたお寺の活動をされているのが好ましい。しかも、なんと私が以前から関心をもっていた「臨床宗教師」の勉強をされている。場所もいつも買い物に行く道の駅の近くで、車で15分のアクセスはありがたい。
お寺の存在を知ったその週末に、死から生きることを考えるというテーマの寺カフェなるイベントがあったので、興味津々でまずそちらに参加した。年配の方がいないのでびっくりした。私がいちばんの老人だ。お母さんに連れられてだと思うが中学1年生が二人。住職が若いので、自然に子育て世代が集うのだろう。
若い人からは自死というワードが出てきて、漠然と年齢なりの死という感覚で捉えた死の概念を前提にしていた自分に気づいた。ふだんどれだけ狭いものの見方をしているんだろう。自分の半径数メートルしか見ていないことに愕然とする。自分に子どもや孫がいたら違うのかもしれないが、自分の家族が犬ですら高齢だったので、その範囲でしか死を考えていなかった。
若い人にとって私が持ち込んだ死の概念を考えるのはまだ遠い先の話だが、コロナの影響もあって自死という問題は身に迫っているのかもしれない。若い人が集うお寺は新鮮だ。さまざまな年齢の人と話すのは新鮮だ。
坐禅会は来週なのだけれど、曉天坐禅と朝のおつとめを開放しているのでどうぞと言っていただいた。さっそく瑠璃練が休みの今朝、満天の星空の中を出かけていった。比較的あたたかい朝だったけれど、想像以上にお寺は寒かった。まさか完全ノー暖房とは......。永平寺の雲堂みたいだ。修行風味マシマシ。天龍寺が坐禅堂も本堂もあたたかかったのは、年配のお坊さんが多いからだろうか。
が、この寒さを味わうように坐ると、かえって身の引き締まる感じが心地よい。大きなろうそくの灯りひとつのなかで坐る時間は格別だった。続いて本堂でのおつとめ。これまでの経験上、唱えるお経はだいたいわかっていると思いきや、しょっぱなから、なじみのない長いお経が登場した。しかも、スピード速くてぜんぜんついていけず、うちのめされる。
まだまだ知らないことだらけなんだという当たり前の事実を思い知らされた。外に修行に行けなかったこの数年間で、何かが固まりかけていたのだと思う。澱んでいたのだと思う。思考もパターンにはまっていたと思う。こうして新しい環境で、初めてのお坊さんたち(住職とアメリカ人僧侶)と一緒に坐り、お経を唱えることで、固まりがほぐれるきっかけがつかめた気がする。
明るくなった空に南アルプスの山々が美しい。早朝でなければ間違いなく帰りに温泉に飛び込んでいた。家に戻ってストーブに火を入れ、ほうとうを作って食べ終わるまで、手が冷たくて痺れるほど身体は冷え切った。それでも、心はすがすがしく、意欲に燃えてあたたかった。
やはり修行を続けるにはサンガの存在が欠かせない。ひとりでもできるけれど、仲間がいることで励みが生まれる。新しい刺激を得て、しばらく棚上げしていた正法眼蔵への取り組みや、新しい仏典の課題もリストアップして、やる気に満ちた3月の始まりとなった。薪仕事もひと段落したので、3月は自分自身の瓦を磨くことに精進しよう。
