家族が帰ってきた
軽井沢の分校を引き上げたときに、大きすぎて神楽坂のCHAZENには持ち込めないテーブルをさてどうしたものかと悩んだ。手放すことも考えたけれど、愛着があるし、二度と同じものは買えないだろう。結局、軽井沢から一緒に運んでくれた人が事務所で使っていてくれることになった。移住が決まってからも、まずは片付けが先決と、しばらくそのまま預かっていてもらった。
移住した家に元あった家具は、アンティークっぽい雰囲気のものが多く、古いけれどイヤな感じはしなかった。ところが、住んでみるとなんだか居心地が悪いというかおさまりが悪い。たぶん趣味の問題というより、ライフスタイルの違いなのだと思う。
たとえば、ソファはあれば使うかと思ったが、テレビも見てくつろぐことのない私はめったに座ることがない。邪魔になって、サンルームに追いやってしまった。それから、天板の長さ190センチ厚さ8センチという巨大なダイニングテーブルがあり、山小屋風の喫茶店だったらきっといい席になりそうだが、質感や脚が低めなのが落ち着かず、どうもしっくりこない。かといって巨大すぎて片づけることも能わず。
いよいよ、例のテーブルが戻ってくることになったとき、究極のソリューションとして、巨大テーブルの天板を壁に立て掛けることにした。どんなにがんばっても横から縦にできない重量なので、知恵と力を総結集し、数センチ単位で動かしていく。テキトー人間もさすがに用意周到に準備して、不測の事態が起きても救急車を呼べるよう手の届くところにiPhoneを置き、スリリングな緊張感とともに、なんとか成し遂げたのであった。
そしてついに先月、テーブルが帰ってきた。ありがたいことに、3人がかりで東京から運んできてくれて、あっというまに組み立て完了! 件の巨大テーブルに比べたらなんとも取り扱いがラクではないか。

「よその家」の子になっていたテーブルは、よそよそしい他人行儀なオーラを出すのかと思いきや、しばらく下宿生活をしていた子どもが「ただいま!」と帰ってきたように、ごく自然に、ずっとそこにいたかのようになじんだ。
それは、今ひとつ自分の家になりきらなかったこの家が、「我が家」になった瞬間だった。
離れ離れに暮らしていた家族にようやく再会できたような嬉しさに心がはずむ。このテーブルがあるだけで、ずっとそこにいたくなる。なんともいえないこの落ち着き......。20年近く断捨離を続けて、もはや物質への執着は薄くなった私であるのに、モノがこんなに心を和ませてくれるとは思わなかった。大げさに言えば、シューが帰ってきたような、ひとりじゃなくなったような気持ちがする。もう帰ってきてはくれない犬と違って、この子はずっと長生きして、また私と一緒に暮らしてくれるようになったんだね。
このテーブルを買ったのはちょうど30年前。サイズから木の種類から色から自分好みにオーダーしただけに、なにもかもがしっくりくる。特に質感と脚の高さには「やっぱりコレ」だと30年前の自分をほめてあげたくなる。そのとき新築マンションを衝動買いしたことは闇に葬りたいくらいの失敗だったけれど、それがなければこのテーブルも買ってなかったわけだから、まあよしとしよう。
以来、毎日の食卓はもちろん、友達を招いての飲み会の場でもあり、フリーランス時代は仕事場でもあった。
部屋が狭い都心に引っ越すにあたって、いったん実家に置いてきたものの、やはり恋しくなって取りに行った。化粧合板の安っぽいテーブルでも問題なく生活はできるけれど、そこから得られる落ち着きはぜんぜん違う。木の癒し効果も大きい。

テーブル下のスペースすら貴重で、そこにクッションを置いてシューの犬小屋にしたり、自分も一緒にそこでくつろいだり。寝ているとき以外はこのテーブルの前にいた。丈夫なテーブルだから、地震がきたらその下に入るのにもってこい。実際、震災のときは家の中めちゃめちゃだったけど、シューにケガはなかった。

けれども、この「お気に入り」はすべて、モノとしての、すぐれた家具としての、愛着でしかなかった。軽井沢から引き上げるときも、大枚はたいて買ったから惜しいというような損得勘定があった。

だけど今回、戻ってきたテーブルには、家具としての愛着を超えたナニカを感じた。
なつかしい人が帰ってきたような感情を抱いたのだ。
実際、家族みたいなものなんだな。
シューが健在だったときはつゆほども思わなかったけれど、親も実家もなく、シューもいなくなった今、このテーブルの存在感がとても大きく感じられる。たとえモノであっても、離れて暮らしていた家族が帰ってきたようになつかしく、一緒にいて落ち着くのだと気づいた。
スナフキンのように暮らしたいと思う私にはなんとも足手まといだと思っていたけれど、かの巨大なテーブルに比べたら大したことはない。これほどまでに私の心を和ませてくれるとわかったからには、この先も大事な伴侶でいてもらうつもりだ。何といっても何日留守番させようが、人のうちに預けようが、ちっとも文句を言わないし、ストレスで病気になったりしないのがいい。足にすがりついて、置いて行くなと泣き叫んだりもしない。
こういったことはすべて心理作用であって、同じものが心のはたらきひとつで変化していくということの例だ。多かれ少なかれ、私たちはそういう偏った見方で世界を眺めている。それを妄想という。
妄想と自覚しつつも、今日も日がなこのテーブルの前で過ごす。それもまた現し身の我なり。