top of page

安楽な生活

久しぶりの、東京以外で迎えるお正月は、お雑煮を食べたくらいで、ほとんどふだんと同じような日であった。ただ、年末年始くらいと思ってふだん食べないものを買ってみた。クリスマスに来たゲストたちに「やせた」と言われたので、少し間食でもしてみようかという気になったのかもしれない。


東京にいたときと同じ1日2食ではあるけれど、何しろ近所に店などない山の中だし、無駄に車に乗らないようにしているので買い物はたまにしか行かないから、ほんとうに簡素な食生活が実現できている。数分でおいしいものにアクセスできた神楽坂との違いである。

そのうえ、薪割りだの薪小屋の片付けで肉体労働が充実し、シューがいないおかげで夜はぐっすり安眠できるようになったので、だるいとか頭が痛いとか胃が重いとか、病気未満のちょっとした不調がゼロの毎日なのだ。デスクワーク中に眠くなることすらないから、東京でやっていたように眠気覚ましに何かつまむということがない。というわけで、体調がすこぶるよろしい。


ところが、クリスマスだから、年末だから、お正月だからと少し特別なものをいただいたとたん、さっそく身体も狂い始めた。特に年末から少し歯茎が腫れてきて、元旦の夜にはごく軽い頭痛もあった。考えてみたけれど、砂糖の影響しか思い当たるものがない。翌朝には頭痛も治っていて、ほんの短い間の不調ではあったが、因果関係がはっきりしていただけに興味深いものだった。


そもそもストレスがないから食べなくてもよい。純粋にお腹が空いたときだけ食べる。質素な食事がとてもおいしくて満足感があるから、変わったものを食べたいとも思わない。食べたいものを食べないようにがんばる必要がない毎日だから、リクエストがあるまで「断食」という観念がすっかり抜け落ちていたくらいだ。


かれこれ20年以上前からずっと移住したいと思いつつ東京に住み続けてきた。それは目の前にやりたいことやそのための場があったりして、東京を離れる理由がなかったからだった。住んでいるときは東京の生活に満足もしていた。それでも、今思えば、あれはなかなかのストレスフルな生活だったと思う。


会社にも行かず、電車にも乗らず、嫌な仕事は引き受けないようなこの私でも......。いや、そんな私だから窮屈に感じるのかもしれないけれど。


そしてストレスフリーになった私は、ますます好き勝手に生きていきたいと思うようになっている。これ以上どう好き勝手に生きるのかと思われそうだけれど、そんなことを妄想するのがちょっと楽しい。


ヨガや禅をやっても私という人間の性質は変わるはずもなく、子どものころから好きだったことを今なお求めているし、20代のころに考えていた理想の生活というのが、実は今のこの山小屋暮らしに近いものだったりする。


日ごろ、修行とかプラクティスという言葉を連発している私はさぞストイックな生活をしているかと思われるけれど、決して「我慢」してはいない。もし側から見てそれが禁欲的と思われたとしても、私自身はたぶんそれを楽しんでいる。少なくとも、それを通して人生がさらに輝いて楽しくなるように思っている。

先日来、座学のテーマになっていることが、シャバでいう「快楽」こそが「苦」になっているのと同様に、シャバで「厳しい」と思われることが実は「安楽」をもたらすものであったりする。


このキモがわかると、当然のようにプラクティスを求めるようになるのかもしれない。まじめに練習することだけが修行ではないし、優等生なら悟れるわけではない。とはいえ、プラクティスをしなければ土俵にも上れない。


最初は我慢してやるのかもしれないけれど、それがいつしか安楽に変わる。そうなればおのずと、すべてが安楽ベースでまわっていく。逆に最初に快楽だったものは苦に変わっていく。ギーターにもそんなことが書いてあったね。


こんなことばかり何年も言い続けているから、CHAZENの人たちにはすっかり耳タコだろうが、このしつこく言うこともまた、日々のプラクティスと同じように身体に染み付いていくと思うので、何度でも言う。


完璧にはいかないけれど、体内のどこかでこれが生きていれば大丈夫だと思う。どんな形でもプラクティスを続けること。今年もただひたすら歩みを続けていくだけだ。


今日も甲斐駒ヶ岳の美しさに見惚れる

bottom of page