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女性に禅修行は必要か

このこと(タイトル)について最近よく思いをめぐらせている。


6月に行った安泰寺で語り合っているとき、堂長(女性)さんが「女性は禅修行しなくていいと思う」という見解を示し、それを受けて星覚さんも同じ意見であると断言していたその意味を反芻して考えているのだ。ちなみにこの禅修行というのは、永平寺とか安泰寺などで「厳しい」とされる集団生活を送るという意味であって、坐禅はもとより禅的な生活スタイルということではない。


堂長さんは助産師をなさっていた方なので、女性は出産を通じて強くなると経験的に知っているがゆえの発言であり、女性としてそう感じるというのはなんとなくわかる気がした。が、星覚さんがそう思う真意がどこにあるのかまでは、よくわからなかった。そう言うと女性から反論されるとも言っていた。確かに今どきの感覚からすると、女性を排除しているように受け止めることもできるからだ。


ただ、私より上の世代の男性は、結構な割合で「男は外で女は家」のような思い込み、あるいは潜在意識下の刷り込み(サンスカーラ)が強いが、星覚さんはずっと若く、そのようなズレた常識を持っているとは思えないし、性格的にも経歴その他からしても男性優位を主張するような人ではない。それだけに、そう思う真意というか背景が気になったのだ。


これまで女性に禅修行がいるとかいらないとか、考えてみたこともなかった。


まったく遠い話でまな板に載せたこともなかったのだと思う(体験はしておきながらも)。でも、もし意見を求められたならばやっぱり私も女性に禅修行は必要ないと言うかもしれない。自分自身はつまみ食いしかしてないので、何年も禅修行されてきたお二人のその意見が気になるのかもしれない。ただ、禅修行は男性的な性格のもの、男性目線で設計されていることは間違いない。


安泰寺というのは男女の別なく開かれているお寺ではあるが、ある意味では女性の修行者を受け入れない永平寺以上に男性目線で作られている。永平寺は修行者は男性ばかりでも、訪れる人は女性が多いから、そのような作りになっているが、安泰寺はそもそも女性が安居することなど想定されていなかったのだと思う。女子トイレや浴室は当然ない。


そのような環境のなかで修行を続けてきた堂長さんはすごい人だと思う。ご自身のことを「男でも女でもない、人間だから」とおっしゃられていたが、仏道というものはまさに「男でも女でもない」境地でなされるもののように感じた。


私ときたら逆に「男でもあり、女でもある」のだから。戸籍上も自己の性自認も女ではあるけれど、主に男性の世界とされるもの(趣味)に惹かれる傾向がある。反面、きれいでかわいらしい女子的なものを好むところも多々ある。外から見てどうなのかはさておき、性格も男性性と女性性の両方を感じる。


「男でも女でもない」は「無い」のだからそこにこだわりがなく苦は生まれない。反対に「男でもあり、女でもある」は、「男でもあり、女でもありたい」という欲望から生じるものであり、満たされ難いものであるから、苦に直結している。この冬チェンソーや斧でガンガン薪をつくりながらも、爪が黒く汚くなるのはイヤな自分に気づいて苦笑した。この二面性が苦を生むのだと。


最近は男女の垣根もずいぶん取り払われたし、実質的に女子とみなされにくい年齢になってきたせいか、オンナであることをあまり意識しなくなったが、それでもどこかにやはり「こだわり」があることに気づく。そして、男女は平等であるべきだが、男女の違いはあっていいと思っている。生物学的に違いがある以上、つまり自然の大いなるはたらきがそのような違いを作った以上はその違いは尊重されてしかるべきだから「らしさ」はあっていいと思う。むしろあってほしいとも思う。ただ、それは誰かにそうあるべきと押し付けられるようなものではないし、「らしくない」場合もありなのだ。


そういえば......とプラムヴィレッジの話を思い出した。5月の坐禅会で星覚さんが横田老師からの言葉として、坐禅は口をへの字にしてやるものではなく楽しいものであるとの話をしてくださったが、それはそもそもティクナットハン師が言われたことなのだという。


そして、星覚さんが以前プラムヴィレッジに行ったときに、尼僧さんが生き生きと楽しそうにしていたという話を思い返す。そのイメージなのかなと思う。確かに、女性は禅寺で厳しい修行をするより、プラムヴィレッジのようなところで、のびのびとほがらかに修行生活を送るほうがしっくりくる。


東京に行く日の朝、そんなことを考えていたら、いつもバッハをかけるところをモーツァルトのメヌエットにしたくなった。軽やかに動き出したくなるような曲。人がおだやかで、かつ生き生きと動いているさまは人類を幸せにする。それが女性であればなおさらだ。軽やかなリズムのなかで静かに瞑想的な生活ができたら、それこそが安らぎに満ちた生活のイメージに繋がるような気がする。


ただし、「のびのびとほがらか」が「ダラダラとおしゃべり」や「デレデレと作務」になった途端にシャバに堕ちてしまう。その線引きは難しいけれど、紙一重で大違いなのだ。私自身は禅のピシッとパシッとしたところが好きだけれど、それは自分がいつも勝手気ままにダラッとデレッと生きていて、そういう自分を情けなく思っているからだろう。外に出てピシッとパシッとした刺激を受けなければ、とても充実したプラクティスは望めない。


今のところ、私にはお二人の発言のニュアンスは汲み取れていないが、女性であれ男性であれ、厳しい僧堂生活の一部、つまり坐禅であったり、作務であったり、食事作法などを学ぶ(まねる)ことは有意義だ。いくら本を読んで知識を仕入れたとしても、体験による気づきは得られない。YouTubeでアシュタンガの動画を見ても、身体が柔らかくならないように。



今週の山歩き行では、カワウソに会った。写真撮ってもいいですかー?と思いっきり図々しいおばちゃん風味で近づいていったら、向こうからフギャフギャ言いながらご挨拶にきてくれた。



しばしナデナデのファンサービスののち、踵を返して川へ。



これぞ執着しないということ。けじめがあってよろしい(単に早く川に戻りたかっただけだと思うけど)。

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