坐禅は心の断食
更新日:2022年12月12日
12月の摂心は臘八摂心といって、お釈迦様が12月の1日から坐り続けて8日目に明けの明星を見てお悟りを開いたことから、その日程で行われるものです。
本来は、1週間夜も寝ないで坐るという厳しい修行なのですが、天龍寺もいろいろ変化があり、今回は通常の月例摂心と同じ5日間。しかも夜は9時で終わり、朝は4時起きのゆるいスケジュール。そのうえ、40分で区切ることをせず、各自好きなだけ坐ってよいというシステムで、つらいことはひとつもありませんでした。
前述のとおり区切りの鐘が鳴らないので、朝は4時20分から6時まで通しの坐禅をして、そのまま朝課(読経)、小食(朝食)と続くので、僧堂飯台のときは7時まで160分坐っていることになります(人数が少ないときはキッチンで略飯台でした)。
そんなに長い時間かと思われるかもしれませんが、朝はやっぱりいちばん心身がフレッシュな時間なので、ぶっ通しの醍醐味が味わえるのです。
休憩をはさんで9時の回からは坐禅の時間が2時間半ずつあるのでさすがに通しはなく、60〜70分坐って休憩をはさんでからもう1炷というサイクルでした。今回ご一緒したお坊さんたちも同じようなリズムで坐ってらしたので、雰囲気的にも落ち着いていたのがありがたかったです。
偉そうに言ってますが、もちろんずっと坐っているとそれなりに脚は痛くなります。痺れる系の痛みではないのですが、2日目の後半くらいから足腰がだるくなったり、膝に違和感が出てきて、3日目からはときどき半跏趺坐(ハーフパドマ)にして調整しながら完走しました。
終わってみて思うのは、5日で十分ということ。むしろ一般人であれば、1日でも3日でもいいと感じました。1日だけでも、ほかのことをせずに坐り続けたら、かなり心のお掃除ができるというのが、自分の心の状態を観察して得た今回の結論です。
シューがいなくなった喪失感からはわりと短期間で克服できました。それでも、日が経つことで出てくる寂しさや悲しみもあります。今こそ摂心だと思って、すぐに天龍寺に連絡をしたました。
摂心でどんな思いが湧いてくるのか、そしてそれがどう変化していくのかを興味深く思っていましたが、思った以上にそれをはっきり感じることができました。
1日目はまだ脚も痛くならないので、いくらでも坐っていられます。思えば、この初日が大浄化の日でした。
久しぶりの天龍寺の坐禅に感慨を深くしていると、CHAZENで初めて星覚さんの坐禅会をしたときのシューのことが思い出されました。警策を振り上げたとき天井に当たらないかテストするために、星覚さんが私の背中を軽くビシッと打ったことがありました。それを見たシューがひどく怯えて、翌日の本番中はいつもウロチョロしているシューが、星覚さんを恐れて私のそばに身を潜めるようにおとなしくしていたこと。
それからシューと一緒に来た禅の旅。7月の猛暑の日に、佛生寺で犬を中に入れてもらえず、二人で外で待っていて熱中症気味になったことなど、次から次へと思い出が甦ります。
きわめつけは、CHAZENで坐禅をしているときにシューがうるさいと、結跏趺坐の上にシューを乗せて坐っていましたが、そのときの、法界定印にしたを置いたシューの背中の温もり。腕枕にしていた前腕の感触や、肉球の匂いなど、感覚の記憶ほど喪失感を大きくさせるものはありません。
何度も目から涙があふれてきましたが、流れるにまかせて坐り続けました。
それが2日目は不思議なくらい心を煩わせるものが消え、心の波が静まっていたのです。足腰がだるいとか、お腹いっぱいで眠いなど、たった今の雑念はあれども、ずっと追って考えてしまうようなこと(執着)や感情を動かされるような思いがないことに気づきました。
それを実感した3日目の朝は、摂心に来てよかった。天龍寺にご縁があってよかったという歓びが沸き起こりました。このとき、坐っている私のまわりをシューがぐるぐる走り回るイメージが出てきたのです。実際にそんなことがあった記憶はないので、なんだろうなと思っていました。
4日目に泊まっていた参禅寮に誰かが置いていった野口法蔵さんの本があるのに気づき、チラ見したら止まらなくなりました。ニュースや天気予報を含め、一切の情報を絶っていながら、心を動かされずにはいられない本を読んでしまったのです。
案の定、たちまち心が曇り始めました。坐禅中に考えごとに耽っている自分に気づいてハッとしたり、またシューのことが思い出されてきたり。
摂心は3日でもいいと思ったのはそのあと5日目も冗長な坐禅になったからでした。たぶん夜通し坐っても眠いだけで悟りには近づけないような、そんな気がします。お釈迦様級の人以外は。
そんなこんなで、最終日の最後の坐禅を待たずに夕方メールをチェックしたところ、インターネット問題でやりとりしていたルーターの会社から解決法の提案が来ていました。摂心中は、摂心が始まる直前まで私の心を悩ませていたその問題をすっかり忘れていたのですが、突然シャバに引き戻されました。
そのあとの最後の坐禅がシャバを引き摺っての坐禅になったことは言うまでもありません。それでも、すでに3日目に満足しているので晴れ晴れとした気持ちで坐っていたところ、またもやシューが坐っている私の周りを飛び跳ねて走り始めたのです。
「帰ろうよ。おうちに帰ろう」と。
なんだろう、これは。
私の願望の表れなのかと思ってみたのですが、それはほんとうにシューなのです。摂心中もずっとそばにいたのだと思います。いつも一緒にいるのです。
そう思ったとき、滂沱の涙が流れ落ちていきました。でも、それは悲しみや寂しさゆえの涙ではなく、満たされた思いと感謝で胸がいっぱいになったための涙でした。
シューを失い移住の意味を見失っていた私ですが、実はシューがここまで連れてきてくれたことに気づきました。ちゃんと神楽坂のCHAZENの最後を見届けて、サンガがうまく発進したのも見て、あとは自分でなんとかしなさいと姿を消したのですね。
摂心から帰ってきてから、失われていた気力が戻っているのを感じました。元の自分に戻れたようです。そうしようと心がけたわけではないのに、新しいオンラインプログラムのことを考えたり、家の片付けのことを考えたり、いつもの私らしくなっているではないですか。
実に、摂心は心の断食です。
毎夜、最後の坐禅のあとに、「正法眼蔵 坐禅儀」の一節を唱和するのですが、その中に「諸縁を放捨し、萬事を休息すべし」という言葉がありました。摂心は私たちシャバの人間が諸縁を放捨し、萬事を休息することのできるすばらしい機会なのです。
摂心というと敷居が高いと思われるかもしれませんが、多くの方に体験してもらいたく、そんなプログラムのアイデアも浮かんでいます。
まずは17日の星覚さんによるオンライン坐禅会でお待ちしています。
