今週のプラクティス
湿邪にやられてオソロシイほどに眠り続けた1週間のあと、太陽が戻ってきたのと同時に今度はギンギラギンに冴えて、寝なくてもいい身体がやってきた。まずは今月に入って初めての山歩きから。
お寺での坐禅・朝課→神社参拝のあと、いったん河原に下りてしばらくカエルくんと戯れてから渓谷道を歩き始めたら、わりとすぐ前を若めの男性が歩いていた。後ろからプレッシャーをかけないように距離を保って歩く。前に人が歩いていたことなどないので気が乱れたらしく、滝のほうへ下りていった男性をチラチラ見ながら歩いていたら、岩の上で足を滑らせた。鎖を掴んでいたのでスネを打ったくらいで澄んだけれど、リアルな滑落擬似体験にヒヤっとした。こういうちょっとした慢心が事故を招くことを身をもって知る。
それにしても、ここの水はなぜこんなに澄んでいるのだろう。雨が降ろうが濁っているのを見たことがない。そして、何度でも、毎日でも歩きたくなる場所だ。
そして、何度でも見たくなる旭滝の虹。

虹を求めて滝に近づいたら、濡れてしまった。

遊んでいるようにしか見えないと思うが、自分的には山を歩きながら禅の世界に入っているつもり。山に入っていると、より道元禅師に近づくことができるような気がする。
6月初めの大雨の影響か、落石ならぬ落木で登山道がふさがれていた。

山を下りたら気分は爽快で、週末までにもう一度来たくなったが、お寺の作務もできていないのでそちらが先だ。
田んぼに入っていた住職のお母様に声をかけて指示を仰ぐ。田んぼ作業を手伝いたかったが、支度をしてこなかったので、まずはこのお寺を建立した馬場美濃守とその末裔の墓所、歴代住職の墓所の草取りをした。なんでも、馬場美濃守というのは武田信玄の重臣だそうで、お参りに来られる人がいるらしい(歴史オタクとか?)。
翌日は泥だらけになってもいいよう念入りに支度をしていって、田んぼ作業。以前、シルバー人材のおばちゃんたちが「田んぼだけはいくらもらっても入らない」と言っていたそうで、たいへん恐縮される。私らお金払って田んぼに入っていたくらいなので、ぜんぜん平気だ。というか、CHAZENで借りていた田んぼの3〜4倍はあろうかという面積の草取りをひとりでされているのを見たら、手伝わずにいられない。
作業しやすいように水の量を少なくしてくださったのだけれど、足を運ぶたびに野鳥の会長靴を手で押さえていなければならないほどズボッとはまり込む。みのるくん......。
除草剤を使っているので雑草自体は小さいのだけれど、何せ広いのでちっとも終わらない。距離があるので抜いた草を丸めて畦にポーンと投げることもできず腰につけたカゴに放り込むのだけれど、途中からそれがずっしりと重く、足はさらに泥中に刺さる。
それでも、田んぼはいい。
久しぶりに入った田んぼはやっぱり気持ちよかった。だんだん泥と一体化していき、タイムスリップして、杭につながれたシューがワンワン文句言ってる声が聞こえるような錯覚がおこった。CHAZENの田んぼ、やっておいてよかった。あの経験が今につながっていると思うと感慨深いものがある。
朝ごはんに作ってくださったおにぎりをいただくときには、3時間半が経っていた。

食べてから小一時間作業して、先に上がらせていただいたが、いやいや、農作業はたいへんだ。荷物が多いので車で来たけど、体力的にも車にしてよかった。自転車だったら帰る気がしなかった。筋肉痛にもなったし(特に三角筋)。
坐禅と田んぼ作業をセットにしたリトリートを企画したら、楽しいかも。
ところで、禅の旅で4つの寺院を回って気づいたのは、このお寺の大きさ。本堂は安泰寺の3倍くらいあるから、ひとりで掃除するとエンドレスだ。安泰寺ではお掃除作務もさせていただいたが、みんなでやるからサクッと終わる。匝瑳の田んぼだって、みんなで作業してたからなんとかなった。稲をお持ち帰りしたときだって、仲間がいたから笑いごとになったけど、ひとりだったら泣くよ。
住職のお母様も、私が手伝うと言ってくれたから勇気が湧いたとおっしゃっていた。戦力としては微々たるものであっても、一緒にやってくれる人の存在というのは大きい。ひとり安泰寺ならぬ「ふたり安泰寺」のヨロコビ。