一汁一菜がよい
ひと月以上前の話になるが、地元でその日の気温に応じで10%〜30%の割引になる「寒得フェア」というのをやっていて、そのサイトを見ていたら、揚げ野菜がトッピングされているスープカレーの写真が目に留まった。たぶんチキンが入っていると推測したものの、ここのところ「肉トレ」しているので問題なしと、偵察がてら行ってみた。
しかし、イタリアンをうたっているその店の「タイ風スープカレー」をあなどっていた。それは私の想像をはるかに超えていた。肉は一切れも入っていないような外見をしていながら、実はカツカレーに匹敵するような量の肉が入っていたのだった。チキンどころか、ハンバーグやウィンナーソーセージまで入っていたのには驚いた。
さすがにこれは危険だと思ったけれど、こうなったら肉チャレだ。修行だ。毒を食らわば皿までだ。と完食した。意外なことに、食後も気持ち悪くならず、家に帰ってもお腹が痛くなる気配もない。肉トレ大成功なり。これならもうシャバの友人とも気楽に食事に行ける。
ところが、2日後くらいに突然具合が悪くなった。だるくてだるくて、起きていられない。早々に寝て休んだのだが、翌朝も起きられず、オンライン朝練を休ませてもらおうかと思ったほど。風邪のような症状もなく、どうやら胃腸からきているとわかって漢方薬など煎じて飲み養生していた。どう考えてもあの肉が私の消化器を破壊したことは間違いない。
1週間ほどでよくなってきたが、それからもご飯を食べるとお腹が痛くなるのが実にひと月以上毎日続いた。こちらに来てからずっと体調がよかったというのに、完全にバランスを崩してしまったのだった。体調が悪いとやる気が出ないし、思考がネガティブになる。2月は心身ともに冴えない毎日だった。食事が精神に及ぼす影響を考えると、だてに肉チャレなどすまいと心に誓った。
げに恐ろしきは、すぐには表面化しない食事の影響だ。
私は基本健康体なのだけれど、胃腸の機能がいまひとつで、油物や多量の野菜をうまく消化できない。炭水化物を多く食べているのは、たぶんそれがいちばん私の消化に負担がないからだろう。精白した穀物より玄米などがいいというけれど、それも体質や季節、その日のコンディションによっては逆効果になる。今なお玄米は食べないでいる。
誰かにとってのベストな食事法は、別の人にとってベストとは限らない。絶対的に正しい食事法など存在しないので、それぞれが自分にとってよい食生活を考えて実験を重ねるしかない。特に「何を食べるか」については個人差が大きいので、私がすすめるとしたら、主に「どう食べるか」のほうだ。
この十数年、食事についてはさまざまな実験を重ねてきたが、最終的にたどりついた結論が「侘び飯」である。
https://chazen.hatenablog.com/entry/2022/02/07/190656
そして、私が考える「侘び飯」のコンセプトに近いのが一汁一菜で、上のリンク先にも書いたのだが、興味のある方は土井善晴著『一汁一菜でよいという提案』を一読してほしい。料理人である土井さんだけれど、調理の方法や食べ物のことよりも、その精神的な言及に惹かれる。
たとえば......
一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、日本人としての「生き方」だと思います。
私の言う「侘び飯」には、あえて質素にするという意味を込めている。それが意図なのだけれど、招待者への言い訳のようなニュアンスがにじんでしまうのは否めない。その点、一汁一菜はきわめてニュートラルだ。ただ汁と菜がひとつの膳という言葉で、意味を受け止める人に委ねているのがいい。
「一汁一菜でよい」のではなく、「一汁一菜がよい」。
いちばん大切なのは、一生懸命、生活すること。一生懸命したことは、いちばん純粋なことであり、純粋であることは、もっとも美しく、尊いことです。
すごい直球のどストライクが、高校球児のようなさわやかさで迫ってくる。
それでいて、オトナの禅風味もたっぷり。
イチロー選手はヒットを打っても打てなくても一喜一憂することはありません。日常は常に冷静でいることが望ましい。
さらにはアシュタンガ風味まで。
淡々と暮らす。暮らしとは、毎日同じことの繰り返しです。毎日同じ繰り返しだからこそ、気づくことがたくさんあるのです。その気づきはまた喜びともなり得ます。
万人がアシュタンガの朝練や禅の食事作法は実践するのは難しいが、一汁一菜は誰もが雑作なく実践できる。こういうこともある意味プラクティスなのだと思う。小さくて地味なことをていねいに積み上げる。積み上げるといっても、どれだけ高くなったかを目標にするのではなく、積んでは崩し積んでは崩して、新しい一日を生きる。
一汁一菜とは、たぶんそういうことなのだと思う。
