リピートあるのみ
先月くらいから、スートラクラスではサーンキャの理論をゴリゴリに学ぶモードに入っている。CHAZENの座学が長い人は、何度も何度も聴いているのでかなり理解が深まっているのがわかる。比較的最近始めた人たちは用語に慣れていないこともあって、難しいと感じているようで、某嬢はあまりの難しさにZoomの向こうで「のたうちまわって」いたそうだ。
それでも大丈夫。
みんな通る道なのだ。誰もが最初はさっぱりわからないところから始まって、わからないなりに続けていると、知らず知らずのうちに要旨が見えるようになってくるのだから。
座学クラスを始めたばかりのころ、同じことを言わないように心がけていた。毎度変わり映えのない話を聞かされたら飽きるだろうと思ってのことだ。が、やがて大事なことは何度でも言ったほうがいいと思うようになった。大事なことは何度聞いても飽きないのだとわかった。そもそも教材(スートラの文言)自体は毎回違うのだから、話す内容は同じにはならない。ただ要点が変わり映えのない話になるだけだ。クラスを超えて、スートラとギーターが重なったり、スートラと仏典クラスで同じことを言っていたりするので、毎回同じようなことを話している気がする。それが「ちゃみこ節」というものなのだろう。
それがいいか悪いかはさておき、知識を並べるだけの講義はおそろしく単調でつまらないもの。過去に禅の勉強会で経験したことがあるのだが、講師自身に主張がないと、ただ平坦に難しい話が続くだけで何も残らない(若い修行僧はみんな寝ていた)。で、p、飲み屋にいるおっちゃんみたいに何度でも同じことを繰り返したら、ウザい部分だけは記憶に残るのではないか。どのみち、ぜんぶを記憶するなんて無理なのだから、ほかのすべてを忘れたとしても「またあの話かよ」ということだけ記憶にとどまっていたら、それでいいのだ。
過去に講座やワークショップを受講したときのメモを整理していたら、見てすぐに思い出すこともあれば、まったく忘れていることもかなりあることに気づいた。印象に残っている話でも、一言一句を覚えているなんてことは常人ではありえないから、忘れてしまった話の中にもなにかエッセンスがあれば、そうとは認識されない形であっても頭の片隅、あるいは身体に蓄積されていると思われる。それが一定量を超えたときに、はじめて「身についた」存在を実感することができる。
結局はどれだけそれを繰り返すかに尽きる。
アシュタンガの練習だって、練習の進捗や日々の感覚は覚えていないけれど、感じられないところで変化は起きていて、1000回も繰り返せば自然にマスターしているのが実感できるだろう。
わからなくても、忘れてしまっても、できなくても、それは大したことではない。ただ毎回の練習なり、毎回の講義なりに真剣に向き合うことリピートし続けていくだけなのだと思う。
私の山歩きも繰り返し行わないとただのハイキングになってしまうので、週イチペースを確保したいところ。今週は週の初めに都合がつかず、週の終わりのほうは雨の予報が出ていたので、仕方なく暑い日の暑い時間帯に行くことにした。さすがに自転車はやめて車で。

ずっと木陰を歩くし、渓谷道なのでかなり涼しいのだけど、それでも額から汗が吹き出してくる。オンラインで瑠璃練を見ているとき、ちょっと汗拭きすぎじゃね? と思うことがあるのだけど、気持ちがわかる気がした(でも、最小限にね。ちなみにCHAZENではだいたい後方から練習生を見ていたので、前から見ると今まで気づかなかったことが目につくのかもしれない)。
ただひたすら歩く。
山のなかに埋もれて、滝と流れと一体になり、ひたすら歩く。
最高の瞑想修行あるいは歩行禅だ。
土地が気に入って移住を決めたのではないのに、たまたまこのような修行の場所と巡り会えた幸運をありがたく思う。
雨の日は腰を落ち着けて正法眼蔵に取り組み、晴れたら作務か山歩きという生活はバランスがととのって快適だ。禅の旅で訪れた安泰寺では、冬は雪に覆われるので読書三昧だそうだが、冬の間薪を作って火を燃やす作務に追われるまま終わってしまった私にとっては夏が勉強の季節かもしれない。ストーブを焚かなくなった5月からは、主に暖かい2階で過ごしていたけれど、これからは1階で過ごす時間が多くなりそうだ。サンルームを除く1F部分はログハウスの断熱効果でヒンヤリしている。
先日、歯に違和感があり急遽東京に行ったらかなり蒸し暑かった。結局歯はなんともなくて昼過ぎのバスで帰ってきたら須玉IC付近も蒸し蒸ししていた。ところが空庵まで登ってきたらスカッと涼しい。翌日ふもとの村からやってきた人も、ここまで来ると涼しいと言っていた。夏の2カ月ほどは、涼しい我が家に引きこもってリピート三昧しよう。