top of page

プラクティスは難しいことじゃない

賛否はともかく、もはや使わざるを得ないことは間違いないchatGPT。必要性も、強い好奇心も感じないのは年のせいとして、試みるのも面倒で後回しにしていたのだが、長年使っているテキストエディタがchatGPTを搭載したので、はいはいと重い腰を上げて登録した。


「プラクティス」について書こうと思っていたところなので「プラクティスとは?」と聞いてみたところ、以下のような回答が得られた。


プラクティスとは、ある目的を達成するために、継続的に行う練習や修行のことを指します。主にスポーツや芸術、宗教などの分野で用いられます。プラクティスは、単に練習するだけではなく、自己啓発や成長のためにも行われます。例えば、瞑想やヨガなどの精神的なプラクティスは、心身の健康やストレス解消、自己探求などに役立ちます。また、スポーツのプラクティスは、技術や体力を向上させるだけでなく、チームワークやリーダーシップ力の向上にもつながります。プラクティスは、継続することで培われるスキルや能力があり、日々の努力が大きな成果につながるとされています。


たいへんよくできました。


が、味気ない。AIなんだからあたりまえだけれど、そういう意味では人間特有の偏りとか不完全さがむしろ恋しくなるから、人間味がむしろ邪魔な用途での活躍に期待している。


たとえば、私が同じことを質問された場合は「オレ風味」がつけ加わる。仮に上記の模範回答を述べたとしても、それで終わらないわけで。


私個人はプラクティスという言葉を「練習」以上「修行」未満のニュアンスで便利に使っています。アシュタンガの「練習」と言うとスポーツ的なものをイメージしがちですが、英語から借りてきたこの言葉を使うことで、より広く精神的な修練の意味が加わるように思います。また「修行」だと過剰に厳しいものと受け止められる可能性があります。どちらの言葉も日本語のもつイメージがかなり固定化されているので、そこに引っ張られてしまいますが、英語をカタカナにして日本語化すると、もう少しマイルドな新しい言葉の定義が生まれるような気がするからです。あるいは「単なるワークアウトではなく、能力の向上だけを目指すのでもなく、毎日ただ、つとめ励むこと」を私はプラクティスという言葉で使っていると言ったほうが近いかもしれません。


てなことを、ツバを飛ばしながら語るだろう。


「だからちゃみさんの言ってることはわからない」とか「ウザっ」と思われるかもしれないけれど、それが味なのだ。



さて、本題にうつろう。


寒さがやわらいでストーブから離れることができたことや、お寺に通うようになったおかげで、私の禅プラクティスが復調したのは以前書いた。ついでに、ギックリのあと、さすがにカラダが鈍ってきているのを感じ始めてアシュタンガの練習も復活した。シッティングの前屈をやると、背中がギクシャクするので、少しずつリハビリ。


さらに、自転車トレーニングも日常的にルーティン化された。アシュタンガの練習は長く習慣にしてきたものなので、筋肉痛にはなっても途中でやめたくなるほどキツいということはないが、自転車で坂を上るのは何十年もご無沙汰だったので息苦しさ的なキツさがある。このキツさはアーサナ練習では克服できない。もちろんアシュタンガをやっていたからまだマシだとは思うけれど、自転車を漕ぐ脚力と心肺機能は、そのためのトレーニングをしない限り向上は望めない。ただし、やれば徐々にカラダが慣れてくる。最初は歩いたり、一休みしていた坂も、次はクリアできるようになる。


空庵から国道に下りるまではずっと勾配のキツい坂だ。行きはいいが、帰りは大汗かきかき息をきらして上る。上ル。ひたすら上る。先を見るとげんなりしてくる。期待を背負ったオリンピック選手ではないのだから、疲れたら休めばいいし、いつだって自転車を降りて休めばいい。そう思いながらも、このまま濃ぎ続けたほうがラクなこともわかっている。


ふと気づいた。


そうだ。このcittaのvṛttiをnirodhaすればいいのだ。


坂を見るな。ただ脚を踏み込むのだ。


右、左、右、左......



ペダルを踏むことだけに集中したら、自転車はただするすると坂を上っていく。息はあがるけれど、歩こうか休もうかと考えるよりずっとスムーズに進んでいる。


よし、本日のトレーニングdone!


そんな小さな練習を重ねて、昨日ついに道の駅まで往復してきた。ここ(&その近くにあるお寺)がメインの目的地だったので、いよいよ愛車のカンノンくんが脚として本格デビューを果たしたのだ。


ところで、昨日は最高気温が東京とほぼ同じで暑かった。名水を汲んで飲んだあと、ソフトクリームが食べたくなった。いつか食べてみたいと思っていた「やまじおソフト」を試すチャンス到来。



めっちゃウマ


暑さと達成感が、そもそも美味な「やまじおソフト」に旨みをプラスして盛り上げてくれた。これじゃ、せっかく無駄な燃料を使わず地球にやさしいことをしても、胃腸とか財布にはやさしくないけど。



早朝の坐禅と朝課、アシュタンガの朝練、そして自転車の昼練と、プラクティスをコンプリートすると、なにかつかえていたものがとれたような気持ちよさがある。それに昨日は思わぬ展開があって、ほかにも気持ちのよい出来事があった。


すべてを毎日完璧にこなさなくても、やることを決めてただやればいいのだ。プラクティスのルーティンがうまく流れていれば、あまり思い悩んだり考えすぎたりすることはたぶんないのだと思う。きわめて単純明快なこと。


そんなことを考えていたら、なぜか「歌うたいのバラッド」を口ずさんでいた。もう長いこと聴いてもいないのに?


歌詞を思い返してみて納得。アレンジしたらちょうどハマった。



ああ、プラクティスは難しいことじゃない♪

ただ、息に身をまかせ♪

頭の中を空っぽにするだけ♪



この歌はいろんな人がカバーしているけれど、斉藤和義が歌うからいいのだと思っている。歌唱力がある、いわゆる上手い人が歌うよりずっと胸に訴えてくる。技術的に上手いということは、よくできたAIのように味わいが削がれることもある。


上手くなくていい。上手くないほうがいい。


それが「愚のごとく魯のごとし」ということ。


「ただ」やる。「ひたすら」やる。「一生懸命」やる。


そういうことなんだな。


bottom of page