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ビギナーズマインド!

こちらは今まさに桜が満開。近隣は桜の名所だらけだ。


ちょうど3年前、吹き付ける雪のなかを、シューを連れて着の身着のまま分校へと向かった日のことが思い出される。新幹線から見た、満開の上野の桜と吹雪の光景が瞼の裏に焼き付いている。感染症が世界を麻痺させるという想像もつかないようなことが起こっているなかで、すべてがドラマチックだった。


あの緊急事態宣言の2カ月間は、さまざまな不安や葛藤が押し寄せてきた代わりに、最終的には自分にとって大きな手応えを感じるまたとない修行の機会になったし、困難を経て残った人たちでつくるCHAZENはより結束した。まさに雨降って地固まるだ。あのとき、家賃が払えなくなるほど練習生が減ったら軽井沢に住むしかないと思っていたけれど、無事東京に戻れたばかりか、パワーアップしたCHAZENに勇気づけられて軽井沢のほうをたたんだ。それから1年でやっぱりお山が恋しくなり、ついに東京を去ることになったのに、それでもなおCHAZENが存続していることはどう考えても奇跡だと思う。


オンラインの新しいCHAZENは想像以上にうまく運んだだけれど、心のどこかで「こんな自分でいいのか?」という思いはあった。誰かに何か言われたわけでもないのに、自分で自分を勝手に縛っていた。先月体調が悪かったせいもあって、特にその自縄自縛の沼にはまりかけていた。


分校で山籠りをしていたときも、そんな思いが押し寄せていた。あのときは山ごもりの修行によってある種の小さな悟りというか気づきになり、解放感と満ち足りた思いでコロナ後のCHAZENを始めることができた。


今は、ちょうどよいタイミングで地元のお寺にご縁ができ、禅マインドが戻ってきたことで、沼には落ちずにすんだ。最初は単に坐禅会を探していただけだったけれど、うまい具合にぴったりはまるお寺が見つかった。そして、通ううちに、これは絶好のチャンスではないかと気づいた。


誰も私のことを知らないということは、私が<私>をなくす修行にもってこいではないか。


ここではただの参禅者で、何のしがらみもない。愚の如く魯の如しで、徹底的に自己を消す試みができそうな気がしたのだ。永平寺に上がった新参僧のように、言われたことにはただ一言「はい」と答え、すべてのことをあるがままに受け止めよう。何かを習得したり、何か偉いものになるためではなく、なんでもない自分になるための参禅をしようと思った。


意識して観察すると、自分がどれだけ我を張って生きてきたかがよくわかる。「でも」とか「だって」、「私はこう思う」とか、そんなことばっかりだ。思えば長いこと、何かを獲得するために、何かになるために、ヨガを学んだり、禅を学んだりしてきた。もちろん、それでこそ身についたものは多々あるし、知識も増えた。けれど、そこにはもれなく<我>もついてきた。


今がその余計なもの、<我>をうっちゃる絶好のチャンスなのだ。


そう思うと、新入学の一年生のように、毎日がワクワクだらけで楽しい。「自分はすでに知っている」という思いなく、幼な子のようにあらゆることを吸収していけたらどんなにかすばらしいだろう。


それこそまさにビギナーズマインドではないか。


私に必要なのはこれだったのだ。初心に戻って、すべてをそのままに受けとめること。それはCHAZENにいたら難しいけれど、今ならできるかもしれない。知らないフリをすることはできないけれど、なんでも「今初めて聞いた」という心持ちでいることなら可能だ。そういう態度でいたら、ほんとうにそんな気持ちになるような気がする。


お経を覚えようとするな。ただ習慣にして身体に沁み込ませるのだ。新参僧どころか、ただの門前の小僧になって、ひたすら唱えるだけ。それが禅であり、それがアシュタンガ。頭で解決しようと思うな。思いの手放しこそがプラクティスの極意だ。


そうして、次にやるべきは布施行だと考え、作務でお布施をさせてくださいとお願いした。それはありがたいと快く受け入れていただき、朝課終了後に本堂を掃除させていただいた。最初はただサットヴァなお布施をしようと思って、そのつもりで掃除していたはずなのに、埃で汚れていたところや畳をていねいに雑巾掛けするうち、これだけやったらきれいになったと喜んでもらえるかも、などといつの間にかラジャスに傾いている自分に気づいた。それでも、無意識のうちに評価される<我>に気づける機会をありがたく思う。


お布施なのに「仏様のお下がり」の果物を頂戴した。先日もお茶碗洗っただけでお下がりをいただいた。修行道場ではなく、普通のお寺さんなのでお気遣いくださるのだ。瑠璃練生もお寺さんからお菓子などよくいただくらしい。自称ヨガ道場だったCHAZENでは掃除も練習のうちと言って、練習後に雑巾掛けする習慣がついている。その精神が根づいている瑠璃練生はいつもピッカピカに掃除して帰っているので、母体のお寺の住職「猊下」が感動しているそうだ。


さて、問題はこのビギナーズマインドがいつまで持続するか。慣れるにしたがって、だんだんすれっからしのボロが出てくるような気がする。ただ、二人のお坊さんは、私がどんな人間であろうと変わらぬ態度で接してくれるように思える。誰も評価などしないし、どんな人間であっても平等に接してくださるだろう。そんな雰囲気が感じられるだけに、ますますビギナーズキープのモチベーションも上がる。


ビギナーズマインドは、還暦の私をピカピカの小学一年生にする魔法だ。しのごの言わずになにごとも一生懸命やり、せっかく取り戻した初心を満喫したい。



境内の桜の向こうに突如現れた甲斐駒ヶ岳


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