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すべては自分自身の問題

東京はあたたかかった。


この時期は薄着をして冷えることもあるからと用心して着込んでいったので、なおさらほてるような感じがあった。薪の消費量がかなり減ったとはいえ、お山はまだ冷える。東京の気候や人がどんな服装で歩いているかわからなくなっていた。が、暑く感じたのは実際の気温以上に人の多さのせいかもしれない。人混みを味わったのはかなり久しぶりだ。マスクの義務もなくなった春休みの祝日だから、どこも人でにぎわっていた。


帰りの高速バスもほぼ満員で、乗ったら隣席の人が脚を広げて座っていた。いかにも傍若無人そうな若い男性を見て、女性専用席で予約すべきだったと後悔した。私が隣に座っても当然のように脚を広げている。あげく居眠りして、どんどんこちらに傾いてくる。仕方なく窓のほうへ体を向けて小さくなっていたが、あんまりなので、飛行機みたいに他の席に移動できないものだろうかと考えたりした。


が、そのとき読んでいた仏教本にちょうど「すべてはうつろう」という言葉が出てきて、そうだ、たった2時間だけのことだと思い直した。2時間なんて、人生で記憶にすら残らない一瞬でしかない。ましてや宇宙時間で考えたら、小さなひとつの点にすぎない。バスを降りるとき、通路側に座っていたその人が立ち上がってくれたお礼を、心を込めてていねいに言ってみたら、2時間の窮屈な思いは消えていった。


人の態度に嫌悪を感じることもあった。

それとても、よく考えれば自分も似たようなことをしてきたと思う。人に嫌悪を感じるときは、相手が自分の姿を映し出しているからなのだということを思った。いつかその人自身が気づく日が来るのだろう。誰かにたしなめられるよりも、自分で気づいたときのほうが強烈な印象になる。


今回の「呼吸とアーサナワークショップ」のコンセプトも同じで、私が何を言ったかよりも、そこから何を感じ、何を気づいたかで、重みは違ってくる。気づきは受け止める人自身のバックグラウンドや経験によって大きく異なる。私はいつだって、変わり映えもせぬことを延々と言い続けている。毎回同じことを言っていても、受ける側のステージによって響き方も異なる。以前はまったくピンと来なかったことが突然生きて何かを訴えかけてきたり、瞬時にあらゆることがつながったり。


結局は、すべて自分自身の問題なのだ。


隣にどんな人が来ようが、誰がどんな態度をとろうが、ワークショップで何を聞こうが、自分自身がそれをどう受け止めて、どう行動につなげるか。


宗教のアプローチにはふた通りある。ひたすら身をゆだねて救ってもらう受け身のアプローチと、なんらかの修行をして自らを変えようとするアプローチだ。実際には、両方の要素が合わさってこそ効果的に成り立つので、絶対的なものでではないけれど、アシュタンガヨガや初期仏教は後者の要素が強い。


プラクティスをするもしないも自分の判断だし、そのプラクティスをどのように行うかも自ら考えて自ら行うもの。神や仏にゆだねる部分もあれど、そこには壺を買ったら救われるという類のものはまったくないのだ。


ちなみに、あえて修行とは言わずプラクティスという言葉を使っているのは、どうも修行というとすぐに厳しいものを想像して敬遠したがる人が多いから。なにも警策で叩かれたり滝に打たれたりせずとも、自分自身の行動についてよく考え、ちょっと己を律したり、甘やかさないようにするだけで十分修行になると思っている私としては、拒絶反応を見るたびに驚く。


さすがに永平寺の新参僧と同じことをせよと言われたらそれは厳しいと思うけれど、シャバにいるわれわれの「修行」などたかがしれている。むしろ、嘘と虚飾に満ちたシャバ世界に目を瞑って生きるほうが、私には厳しいことに思える。


3月の星の坐禅会を終えたあとで、私自身がプラクティスなしにはやっていけない「迷える凡夫」であることを改めて感じた。伝える側に立つと、うっかり忘れそうになるけれど、そもそもは自分が仏教を必要としているという事実を自覚したとき、心の中をさわやかな風が通り抜けた。


なぜなら「あとはやるだけ」だから。

とてもシンプルで明快ではないですか。


そして、そこにあるのは、向上心ではなく、向無心だから。

なにか優れたもの、よりよいものになろうとすると、いつかは破綻するけれど、どんなに厳しい修行であっても、仏教で目指すものは「なんでもない自分」なのだ。なんとも気楽ではないですか。


飯田橋の桜、思いがけず今年も見られた

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