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お寺で気づいたこと

何だかよくわからないままに始まった、オンラインを中心とするこのサンガではあるが、半年がすぎて形が整いつつある。メンバーに関しても、ほとんどの人が概ねいい感じでそれぞれのプラクティスを形作っているように思える。私個人も、失意のなかでただ必死に暮らしていた「冬」が終わり、「春」の訪れとともにプラクティスとデスクワーク、外作務のリズムがよいバランスになってきた。


それに、まったく期待も意図もしていなかったことではあるが、地元のお寺で坐禅と朝課を始めたことでちょっとした意識の変化がもたらされた。初めて永平寺に行ってから12年間それ相当の熱意をもって禅に入れ込んできたつもりだったけれど、そんなのはただのつまみ食いでしかなかったように思える。もちろん、ちゃんと禅の修行をするなら出家得度して専門道場に入らねばならないので、出家する気のない私はどこまで行ってもつまみ食いでしかないのだけど、在家修行者であることを差し引いてもやはり何か違っていたような気がする。


たとえて言うなら、ヨガスタジオのアシュタンガクラスに出てはしゃいでた人が、マイソールに通い始めたようなもの。


それは伝統的とか本格的だからというようなことではなく、回数多くやったから上手になるとか、知識が増えるという類のことでもない。むしろ、なんでもないことだからだ。つまり、より「日常」化したことではっと気づいたことがあった。


さらに、普段は家で実践し、朝の仕事がない日だけお寺に行くというこの形態は、まるで瑠璃練生のよう。家でもできるけれど、仲間がいると気の引き締まり方が違う。業務連絡以上の会話はないけれどもプラーナの交換をしているし、お坊さんたちの修行に対する「気」をもらうことで、大きな力を得ているようにも思える。


ただ坐ってお経を唱えるだけのことで、何かを学ぶとか運動をするなど生産的なことをしているわけではない。それが修行の極意を実感させる。頭で考えても導き出せないのがプラクティスなのだ。



ところで、先月の坐禅会(こちらは月に2回の行事)でお粥をいただいているときに、先代の住職が永平寺で修行しているときの話題になった。お粥は玄米ではなかったとか、薪で調理をしていたとか、修行僧ではない専任の火の番をする人がいたとか。話の流れで、住職のお母様(年齢は私と大してかわらない)がこの辺では薪でもち米を蒸すとおっしゃるので、軽い気持ちで今度手伝わせてくださいと言ったら、翌週おこわを作るというので、すぐにその機会がやってきたのだった。


朝のお勤めが終わったら、裏でもう薪が燃えてお湯が沸いていた。


もう何十年も使っているという羽釜


火の通りがよくなるように大きな菜箸で穴を開けるようにするといいとか、お姑さんから教わってきたことをいろいろ聞かせていただく。いいトシして何にもできない自分がイタい。



ほっかほかのふっかふか

前もって煮てあった五目おこわの具は、干し椎茸の出汁に根菜類+ちくわと鶏肉を入れたもの。にんじんは彩りよく仕上げるために別に火を通して最後に合体させる。もち米が蒸し上がったら大きな器にあけて、具と混ぜ合わせる。


大きなしゃもじで混ぜるのをやらせてもらったがヘタクソで、それじゃあお米がつぶれるとダメ出しをいただき、60歳にして嫁に来た気分を味わわせてもらった。



屋外だからヘマして落とさないようキンチョーする

それを再びお釜に戻して仕上げのふかしをして出来上がり。

一口味見させてもらったところ......




具の味付けが絶妙にちょうどよく、薪で蒸したお米がぷりっぷりにおいしい。住職はいつもこんなうまいものを食べて育ったのかと羨望の念を抱く。その場で小皿一杯いただいたのち、おみやげにもたせてもらい、役立たずのくせにたらふくごちそうになった。


おこわは、その日の午後に催された「寺カフェ」でもふるまわれた。もち米を寄付してくださる方がいるので、お寺に集うみなさんに還元したいということで、すてきな贈与の連鎖にお寺の理想像を見た。



ここでもまた、これまでの自分の禅に対する態度が小乗的だったことに気づいた。何かを習得したいという気持ちが先行していた。もっと大乗的になって、自分にできることを見つけたいと思うのだけれど、それもまた気持ちだけが先走ってカラ回りしないよう、その機を窺うしかないのだろう。


というのも、その「寺カフェ」はお寺とは別のNPOが主催しているが、会の進行に少し引っ掛かりを感じたからだ。誰かの力になりたい、役に立ちたいという熱意があることはよくわかるし、それ自体は尊いことではあるのだけれど、ちょっとした態度や何気なく出てきた「支援」という言葉に上から目線を感じたのだ。


上から目線で引き上げるというのは、川で溺れかけている人に対しては有効だけれど、同じ陸地を歩いている人には共感を得にくいような気がした。


自分もそんな態度を出してはいないかと省みた。誰かの力になりたいと思うなら、離れた車の中から声援を送るのではなく、一緒に肩をならべて走ったほうがいい。あるいはただ黙って自分が一生懸命走ることだ。


この私に何ができるのだろう。


さしあたっては、ただ毎日の修行を続けることしかできそうにない。

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